道場スピリット マネージャー・北原希代子 作
#2道場六三郎物語

石川県山中温泉で漆器の仕事を営む両親のもと、六人兄弟の末の三男として生れた六三郎少年。家業はよく手伝ったが、じっと座っているのはだいの苦手、人一倍やんちゃな少年だった。
十三歳の頃、白山神社に相撲の巡業がやって来た。娯楽の少ない田舎では「双葉山が来るぞ!」とお祭り騒ぎである。そこで道場少年、友達と相談して金沢までりんごを買いに行き、一個五銭で会場で販売した。思いのほか良く売れ、利益を生んだが土地の地回りに睨まれ、怖い思いを味わう。その時の出来事が後の氷の買出しや、金沢や氷見など闇の魚を仕入れては、山中温泉の旅館で売りさばく「かつぎや」へと繋がって行く。
兄たちは戦地に赴き、高級な漆器が売れる時代ではない戦時中、この収入が家計を支えたことは言うまでもないが、何より商才にたけ、人との駆引きが好きだった。かつぎやの仕事で旅館の調理場をのぞくうち、板前のカッコよさに憧れを持つようになる。そんな折、知り合いの魚屋の主人が中風になり、手伝いを頼まれる。初めて包丁を握った瞬間だ。当時の魚屋は、店先で魚をさばき、刺身を引いて売るだけでなく、焼物、酢の物など仕出しの仕事もしていたので、大きな旅館の板場にもよく出入りしていた。

包丁にもなれた十九歳の春、板場の親方から手に職をつけろと諭され、板前に成る事を決意、東京の「くろかべ」で料理人としての第一歩を踏み出す。包丁には多少の自信はあったが活けの魚を扱うのは初めてで野締めの魚ばかりだった山中とは包丁の入れ方がぜんぜん違う。ガスの火にも驚かされた!マッチ一本で強い火力が得られる上、火の調節も自由自在。山中での七輪の火とは大違いだ。料理の仕事にしても殆どが素人!しかし、負けん気だけは充分で、一日でも早く一人前に成る為には料理修行はもとより、朝四時までかかって調理場を磨き上げたり、魚を卸すのも刻みものをするのも、先輩には負けたくないと、どうしたら人より早くきれいに出来るかを何時も考えていた。「早く早く」と常に口にしながら包丁を握る鋭い眼差しに「おまえとは仕事したくない!、お前の目は怖い!なんだか食われそうだ」と先輩からも一目置かれていた。

かつぎや時代に鍛えられたせいか、どんな修行も辛いと思ったことはないが、次に行った神戸ではまともに先輩からのいじめに遭い、おまけにその人間が板長に昇格した為、東下りと訳もなく罵倒され、向板だった自分を客が来る一時間前になるまで板場の中に入れてくれない。そのうえ仕事が遅いと怒鳴るしまつ。その結果、魚でも野菜物でもどうしたら早くきれいに仕事できるか、もうこれ以上できないと言う所までギリギリまでつめて働いた。待ち伏せしょうとまで考えて恨んだ先輩だったが、その時の工夫と時間への挑戦が、後の一時間以内に料理を作るという「料理の鉄人」に生きてくるのは皮肉である。

神戸のホテルでは土地柄もあって、オムレツやトンカツなども作らされ、洋食の仕事もいくつか覚えた。

その後、もっとも強い影響を受けた、関西きっての包丁人杉本成次朗師匠を追って「六甲花壇」へと移る。杉本先生から学んだことは数限りないが、まず大きな目でものごとを見つめること。料理の技術は勿論のこと、器や書画骨董にいたるまで勉強することもまた、日本料理には大切なことだと教えて頂いた。

六甲花壇では充実した時間が流れたが、神戸の時代に知合った仲居さんといい仲になり、六甲に移ってからもよく逢引を重ねた。ところが他にも何人かと付き合っているという噂を聞き仕事が手に付かなくなる。この苦しみから逃れるためには、ここを辞めるしかないと、金沢の「白雲楼」に行くことになる。「白雲楼ホテル」は金沢の郊外にあり、スペイン風の建物で東洋一のホテルと言われていた。ここは和食の料理人が十二~十三人いて、盛付の長を任され、いつの間にか向板になっていた。
ここでの料理は加賀料理かといえば、むしろオ―ソドックスな関西料理が中心だった。よく働き、よく遊んだ三年間。そんなある日東京芝浦で「ぼたん」のチーフをしていた柳井福一先生から、煮方が辞めたので、東京へ出て来ないかと誘いがあった。
昭和二十九年の事だった。「ぼたん」で一年が経った頃、赤坂「常盤家」への入り込みの話があった。関西大京会の会長井垣圭弘先生に附いての入り込みだった。ここではフグ場を任され井垣料理長の次だった。「常盤家」は東京でも名の知れた料亭で総理官邸をはじめ衆議院議員会館など出張料理にもかりだされ政治家も多く利用していた。常盤家で働くようになり、給料の前借が縁で知りあった歌子婦人と結婚する。
料理人を志し、故郷山中を後にしてから約十年若干二十九歳で常盤家の料理長にまで登りつめた道場六三郎。先輩たちからの嫉みや中傷はあったが、その実力には、皆一目置かざるを得なかった。

この頃はまだクーラーなどない時代だ。夏の涼しさを演出するために、庭にわざわざ井戸を掘って、ポンプで冷たい井戸水を屋根の上に上げ宴会まえになると竹筒に穴をあけたものの中に流し込んでザーと夕立を降らせた。道場が働いた頃は、ちょうど常盤家の全盛期だった。なにしろ料亭外交華やかなりし頃だ。料亭の前には黒塗りの車がずらっと並んだ。常盤家では十年ほど働いた。その後、高級惣菜や「船場」を開店したが赤字続きで弊店。新宿のお好み焼き屋「歌舞伎」で働くことになる。ここは大変な繁盛店で、この頃、氷の彫刻コンテストで優勝もしている。その後も「とんぼ」「新とんぼ」と変わり、今まで浪人をしたことがないのを自慢にしていたが、やはり一国一城の主になる夢は捨てられずに、昭和四十六年「銀座ろくさん亭」を開店、念願の自分の店を持つことが出来た。やっと思う存分自分の料理が作れる、そんな喜びを噛みしめ乍ら、客を入れるためにありとあらゆる努力をした。そんな道場の料理は、マスコミや出版社など業界の人たちからも「道場和食」として認められるようになり、後の、料理の鉄人へと繋がって行く。

平成五年十月、あの伝説の番組「料理の鉄人」が始まった。
道場は初代「和の鉄人」として活躍することになるのだが、この番組が六年間も続く話題の人気番組になるとは、考えもしていなかったと言う。日本テレワークの敏腕プロデューサー松尾利彦氏は「いま日本料理で鉄人と言ったら、道場さんしか考えられない」と誘ったそうだが、軽い気持ちで引き受けたこの仕事が、道場の人生を大きく変えて行った。番組の視聴率と共に知名度も上がり、赤坂に「ブラッセリー六三郎」、代官山には「トゥワサントロワ」とプロデュースの店を出店。時代の寵児
となった。

道場曰く「店にも飽きて隠居しかけていた六十三歳、改めて火を点けてくれた神様に心から感謝したい」と。平成八年二月「料理の鉄人」を引退。いままで奥の調理場で見えない存在だった料理人にスポットがあたるようになり、次々と新しいグルメ
番組が台頭する。

二〇〇〇年、道場七十歳の頃、そろそろ好きなゴルフに専念したいと引退を考えていたとき、景気の低迷もあって地方で働いていた弟子達が、次々と道場の元に戻ってきた。可愛い弟子達を路頭に迷わせるわけにはいかないと、銀座に二店舗目の店「懐食みちば」をオープン。
銀座の人気店として、七年前より次女照子が女将を務めている。

東京オリンピックまであと三年、道場六三郎八十八歳!ますます目が離せない。

↑トップへ戻る